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プーテインと第二次世界大戦 [歴史の閃き]

先週、ロシア、ピータースブルグにおける最高ユーラシア経済フォーラム( Supreme Eurasian Economic Council )でのロシア プーテイン大統領の演説主旨:

・来年5月に第二次世界大戦終戦75周年を迎える。
 欧州議会で大戦の責任を旧ソ連とナチドイツの協力に帰す傾向がある。
 特に1939年の独ソ不可侵条約を犯罪扱いする。(注:同条約締結と同時にナチドイツは9月1日
 ポーランド侵攻、第二次世界大戦の勃発。 その2週間後ソ連は東からポーランド侵攻。
 8月23日の独ソ合意ー両国外相モロトフ、リッペントロップ秘密協定ーで独ソはポーランドを分割。
 亦バルト海諸国も両国で分割占領した。) 
 
・英国、フランスはポーランドと形式的な防衛協定を結んだが、ヒトラーを恐れて ポーランド防衛の
 意図は無がった。

・1938年のミュンヘン協定でリードを採った英国は、ヒトラーにチェコスロヴァキアの分割を許し、
 ヒトラーの世界征服野望の道を開いた。

・ソ連は英仏に軍事同盟を持ちかけ、ナチ防止を呼びかけたが両国はヒトラー宥和路線をとり続けソ連
 の申し出を断った。

・ソ連は仕方なく自衛のためヒトラー宥和に走った。
 ソ連がヒトラ-宥和政策を最後にとった国であることを忘れてはならない。
 (注;ヒトラーは不可侵協定他諸協定を破り1941年6月22日ソ連に突如、侵攻を開始し、独ソ戦となっ
 た。)

・欧州議会は第二次世界大戦の責任をナチから共産主義に転嫁しようとしている。
 欧州をナチの破壊から救ったのはソ連であり、赤軍である。

・東、中央ヨーロッパで赤軍戦士の彫像が破壊されている。
 これはナチと協力した欧州の犯罪を隠蔽する企てである。

(上記、アメリカABC他の報道から)

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新産業の威力 [歴史の閃き]

フランス各地に点在する大伽藍、美麗な教会。

85の大伽藍と、約500の教会が、11-12世紀の200年に集中して建設されている。

フランスは以後、イギリスとの100年戦争に富と人力を消費し、続いて人口の三分の一を失ったペストの惨禍で、事後約200年、伽藍も教会もほとんど建てられていない。

建築ブームの200年間、それの支えた財はどこから創出されたのか。

現在価値ではとても想像すら出ぬ膨大な財の集中と消費だった。

村松剛氏の著書”ジャンヌダルク”で、彼は農業の大展開にその富の源泉を求める。

超大国フランスの一介の農民が平均13枚のシャツを保有していた記録が残る。

最盛時のフランス人口は1200万人。それに比して貧乏国イギリスの人口は350万人だった。


バイロン

サラエヴォとミュンヘン [歴史の閃き]

今年は第一次世界大戦勃発より、ちょうど100年。

サラエヴォの一発の凶弾がオーストリアーハンガリー皇太子の命を奪って、あれよあれよいう間に世界は未曾有の大殺戮の悲劇に巻き込まれた。

世界史に名高い事件だった。

一方、1930年代のミュンヘン会談、英仏がヒトラーを甘やかして第二次大戦の切っ掛けとなった。

近代外交、戦争史は、”ミュンヘンの悲劇”を恐れ”悪漢を早く始末する”マッチョ姿勢で彩られている。(イラク、シリヤ、その他、その他)

本日のFT紙コラムニスト、Gideon Rachman氏、日中の戦闘的言辞、対立を”現代のサラエヴォ”と見る。

日本の背後に国際威信を掛けてアメリカがサーベルを鳴らす。

日本支援を停止すれば世界の同盟国の信用を失う。

アメリカはミュンヘンの誤りを繰り返せない。

サラエヴォの凶弾、いかにも些細なピストルの弾。

それが威信を掛けたドイツ、ロシア、フランス、イギリスの介入を呼び世界大戦の引き金となった。

共に敵に弱みを見せまいと日中の対立は激化する。

放置しては極めて危険である。”小さな事故”が恐ろしい。

ー以上が同氏の指摘。

尚、旧ソヴィエットと間一髪で核戦争を回避したケネデイー大統領が愛読していたという、 Barbara Tuchman女史による” The Guns of August,”(第一次大戦を描いたクラシック本)、キンドルから6ドルで購入できます。

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マグナカルタ800年祭 [歴史の閃き]

現在、マグナカルタの元本は、4冊。

2冊が大英図書館、一冊がリンカーン寺院、もう一冊がサリスベリー寺院に保管されている。

再来年、2015年は、マグナカルタ合意から800年。

祝典の目玉として、4冊の元本が3日間だけ2月に大英図書館に並べて展示される。

世界各国の専門学者と、一般から抽選で、合意の年に因んで1215名が閲覧を許される。

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弾除けドゴール [歴史の閃き]

昭和20年2月、黒海に臨むクリミア半島、ヤルタで米英ソ連三首脳の会談。

連合軍はドイツ領深く攻め入っていつでもベルリンは落とせる射程距離。

ルーズベルトアメリカ大統領、チャーチルイギリス首相、スターリンの勝利者会談。

ルーズヴェルトは発言して”ドイツ降伏後、同国の再建にアメリカは最長2年しか関与できない。議 会の反対が強い。”

これを受けて、会議後チャーチルとルーズヴェルト個別会談。

チャーチルの主張。”戦後処理にアメリカが長くかかわれないと、ドイツはソヴィエットの手に落ちる。この際、米英で無理して後押ししたドゴールのフランスを前面に押し出して、対ソヴィエットの緩衝役をやらせなくてはならない。”

ルーズベルト。”ドゴールは気に食わぬ。フランスは事実上存在しないのにまるで勝利者の様に振る舞う。だが、対ソ対抗に利用することは賛成だ。”

連合軍、欧州東部戦線、ソヴィット国境の戦いにアメリカ、イギリスとも約40万の兵士の命を失った。

一方、スターリンが消費したソヴィエット兵士数は、800万人。

桁が違う。

それに、ノルマンデイ上陸作戦では7割5分の兵士がアメリカ兵、イギリスは疲弊しており、2割5分の兵士しか送れなかった。

即ち、戦後のドイツ処理、欧州再建に、莫大な人的資源を投入したソヴィエット、人的資金的に貢献したアメリカが主導権を取り、イギリスは、無力化される。
チャーチルの恐れだった。

この際、小うるさいドゴールをソヴィエットの、対抗勢力、弾除けとしてドイツ戦後処理に重用しようとの米英合意が成った。

Dobbs氏新著、”6 months in 1945”より。

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外敵の貴重さ [歴史の閃き]

1861年、アメリカ南北戦争の始まりの年。

リンカーンの大統領初年である。

南北が分離しそうな勢いに、議会を絶対の勢力で抑えていた国務長官シーワードは、リンカーンに助言している。

国の分裂を避けるために、スペイン、フランスに宣戦布告すべきだと。
カリブ海、南米の商権を巡り、両国とは衝突が絶えない。

奴隷制度を巡って国内は分裂しそうだが、外に敵を作れば、内部問題は消滅する。
時間を稼ごうとの助言だった。

因みに、シーワードは、戦争へ踏み切るに当たり、ワシントン政府内に、”首相”の新しいポストが必要だとし、自分がその役を買って出てもよいとリンカーンに申し出ている。

リンカーンの知性が、両者とも否定した。

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アメリカ国勢調査 [歴史の閃き]

アメリカは10年ごとの国勢調査で、下院議員の定数を自動的に調整してきた。

1860年、リンカーンが大統領選挙に勝利した年の国勢調査、初めて、東部の建国時の13州から、人口の重心がミシシッピー川の西部州に移り、又南部の奴隷州から北の自由州に移っている。

何でもアメリカに"NO”と言えば男が上がる、と勇ましい政治家が日本には多いようだが、先ずは、民主主義の基本である、違憲状態の定数是正位、やり遂げた後の事。

基本スタンスが曲がっていればゴルフボールは、とんでもない所へ飛んでいくものなり。

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ボロジノの戦い200周年 [歴史の閃き]

200年前の今月7日、ナポレオン率いる世界最強のフランス陸軍(グランダルメ)は敗走するロシア軍を追ってモスクワ西方120キロまで迫った。

ロシア軍はこの地、ボロジノで決戦を挑む。

同時に、時間を稼ぎ、モスクワを守護する主力部隊を、郊外に再配置し、戦術的な後退作戦を採った。

ボロジノの決戦に難無く勝利したナポレオンは意気揚々とモスクワに乗り込んだが、兵士はもぬけの殻、主要建物、設備は計画的に放火されて、フランス軍の駐留生活が不可能、おまけにモスクワ市民の生活維持にも、無力で、なすすべが無い。その内、郊外に再配置のロシア軍から猛反撃。

ナポレオンは泣く泣く、退却を余儀なくされ、以降、彼の世界帝国の野望は、次々と打ち砕かれる事となる。

プーテイン大統領が先頭に立つ国を挙げた愛国心高揚のロシアのお祭り。

ボロジノの祭り。

あれからもう200年が経った。

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レーニン [歴史の閃き]

オルガ ウリアノバはレーニンの姪。
89歳で昨日モスクアでこの世を去った。
レーニンには子供がいない。
彼女は、レーニンの弟の娘である。

レーニンはシベリアに流刑中、近くを流れるレナ河から、レーニンの偽名を考えついた。

彼女はボルシェヴィキ党の最初の党員の一人。

化学、物理の教授として多くの大学で教鞭をとった。

ボルシェヴィキはロマノフ王朝最後の皇帝ニコラス二世と、その家族を殺害したが、レーニンは最後までこの決定に反対だったと、オルガは主張していた。

(本日のモスクアタイムズ紙から)

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宗教戦争 [歴史の閃き]

昨年、ローマ法王が訪英してイギリス国教教会との友好を深め様との呼びかけで、国教教会から、カトリックへの改宗者が少なくない。

国教教会が近年大胆な自由解放の路線を取り、ゲイの許容や、女性やホモの宗教指導者への格上げ、堕胎に対する鷹揚な対応等に、内部に不満が増えている。

イギリスには、16世紀、国教教会の開祖、父王ヘンリー8世に背き、カトリックへの回帰を唱え国教徒を虐殺した”ブラデイー(血染めの)マリー女王”の記憶が深く残る。

ローマ駐在イギリス大使が、アメリカの高官に打ち明けた現代版、宗教騒乱の可能性。

一部、偏狭的な国教徒の間に、法王の意図は、国教徒の改宗にありとし身構え、イギリス内に少数ながら生活するカトリック教徒(アイリッシュ系が多い)を、襲う可能性があると、打ち明けている。

ウィキリークの暴露情報から。

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